business boy

文章にイラストを添えた何かをかいていく予定になっている場所です

深夜のエレベーター

f:id:sunaong:20170314002258j:plain

おまえのくちびるの、上と下を、やさしくひらく。
その先には、深夜のエレベーターがある。

左手でくちびるの上、右手でくちびるの下、その上下を支えながら、そのあいだに首をつっこむ。くちびるの黒い夜。その向こうは暗い闇。それは目を慣らしても暗い。ぴちょぴちょ、と、何かが頭に落ちる。
上を見上げると、ささやかな、雨が降っている。私の耳に、ささやきかけるような、リズムで、ぴちょぴちょ、と垂れ落ちる。目の前には赤くやわらかなものがあって、そこに私は自分の舌をのせる。舌とその赤いものは、火星の蛞蝓を彷彿とさせ、ねとねとと抱き合う。エレベーターが始動する。それらはらせんのようにねじれ抱き合いながら上を目指す。上へ、上へ、上へ、上へ、上へ。私の舌は雨にぬれ、ねじれながら上へ。そしてそれはやがて見えなくなった。

私は振り返る。暗闇の中にたらこのような蛞蝓のような暗い赤。私は左手でくちびるの上、右手でくちびるの下を持ち、やさしく、やさしく開く。おまえの目は、そこにいるみんなが息をひそめて2F、4F、7F、11F、とエレベーターの階数表示を見上げるように上を見る。私はやがて振り返らず、前を歩く。おまえの目は、それからまた上へ。私は歩き、おまえのめはどんどん上へ。小さい頃に、ほら、私が転がしてた、舌で転がるあめだまを思いだす。

外は明るい。晴天だ。雲一つない。私は歩く。太陽が照りつける。やがて、どうやら、昇っていった私の舌は、かすかに到着を知らせる音とともに、目的の階にたどりつく。エレベーターは開き、舌は太陽と大空にさらされる。大地の息吹がきこえるだろうか。昔は名前を持っていなかった鳥が羽ばたく。赤い舌は青い空にまじりながら、やがてぐにゃぐにゃに溶けはじめた。晴天はなにごともなかったような顔をしてうらがえっている。晴れの姿をした雨が見える。
私の口元はひりひり。
私はあるく。舌はとける。私はあるく。舌はとける。
舌はやがてとけつくし私もやがてあるきつくした。

うしなわれた1の話

f:id:sunaong:20170215004037j:plain

座られることのない椅子のことを考える。感傷的な意味合いはないけれど、論理的なこともなにひとつないけれど、座られない椅子の椅子たるゆえんについて考える。そうだ、たとえば、1のことを考える。1は、数字であって、足されるものであって、引かれるものだ。この1に、老いというものを重ね、関連づける。そうだ、1の人生について語ってみよう。若い頃は、1+1=2、まぎれもなく2であったはずが、(重ねられることのない)年を重ねるごとに、1は1のまま、鈍くなっていく。気づけば、1に1をたしても1.9にしかならない。2になる力がない。ああ。そしてそれは老成を重ねるごとに、1たるべく力を失っていく。いくら1を足しても、それは1.8にしかならず、1.7にしかならず、1.6にしかならず、1.5にしかならず、1.4にしかならず、1.3にしかならず、1.2にしかならず、1.1にしかならない。そして、やがて、なにも足されることはなくなる。1×1は1になりえず、1÷1は1になりえない。1は、微動だにしなくなる。いや、顕微鏡なんかでよくみると、かすかに足されようと、または引かれようと、草花のように、ふるえるように、微動しているようにも思える。そして、やがてそれは「カウントされるもの」という意味も失う。自らを忘れる。自失。私を忘れる。アイデンティティを失う。しかし。その時そこには、まぎれもない、足すでも、引くでも、自らをカウントすることでもない、かの、1の姿が見えてこないだろうか。
1たるゆえんである機能を失った1は、生きることをあきらめたかのように、その場に根をおろす。1のすがたのまま。やがて、1は、風化していく。ただの形象としての1になる。足されることも、引かれることも、自らをカウントすることもなく、孤島のモアイ像のようにたたずむ1。しかし、それはまぎれもなく、1のすがたであって、いや、1とは、もともとそういうものだったのではないだろうか?1が、老化して、死をむかえて、もはやそれは計算することも、数字になることもなく、1は1としてたたずんでいる。

秋のくだもの、腐燗する

夜の器の硬い面の内で
あざやかさを増してくる
秋のくだもの
りんごや梨やぶどうの類
それぞれは
かさなったままの姿勢で
眠りへ
ひとつの諧調へ
大いなる音楽へと沿うてゆく
めいめいの最も深いところへ至り
核はおもむろによこたわる
そのまわりを
めぐる豊かな腐燗の時間
いま死者の歯のまえで
石のように発しない
それらのくだものの類は
いよいよ重みを加える
深い器のなかで
この夜の仮象の裡で
ときに
大きくかたむく

吉岡実/静物

くだものは、静物だ。しかし、それらは、あざやかさを増す。それらは、眠る。それらは、深いところへ至る。それらは、重みを加える。夜の器の硬さに対し、それらは、気が遠くなるほど、遠い時間に向けて、静かに、座り、遠い昔に立てられていた線香のように、かすかに運動をしている。

くだものは、運動している。腐爛という方法によって。自然と耳に入ってくるだれかの口笛。そのとき耳は、自ら聴くのではなく「聴か」させられる」。くだものたちは、受動的に運動する。自ら動くのではなく、神経、何かの諸感覚によって、自然と動いてしまった親指、人差し指、中指、くすり指、そして小指を思わせるそぶりで。自らの腐爛する能力によって、自ら自身が「動か」させられる」。くだものとは、静物ではない、いまとなっては。静の中の運動性である。静物のいちまい皮の内側にうごめく動物。わたしたちの時間間隔では静物であったそれらは、時間間隔の外に出てしまったとき、疑いもなく動物になる。それは、どうやら、くだものの時間間隔で見なければ、一向に見えてこない。または、遠い未来、腐爛した姿を目の当たりにしたとき、くだものの静なる運動性にわたしは気づく。大阪府の近藤和子さん77歳は「なめくじは 走っているの かも知れず」と詠んだ。和子さんにはきっと、なめくじの静の中の運動性が見えていたのではないだろうか。

豊かな腐爛の時間。くだものは、豊かに腐爛する。「豊か」とは、明るさ。「豊か」には、いきいきとした生を感じる。と、いうことは、豊かな腐爛とは、腐爛とは、もしかしたら、それは生きているということだろうか。くだものは、いつからか、やがて、熟れる。そして、あるときを境に、なのか、またはシームレスに、なのか、やがて、腐る。腐る、それは、死に直結する。それでは、腐爛というもののなかで、どこまでが生きていて、どこからが死んでいるのか。死の中に腐爛が内包されているわたしとは違い、それらは、腐爛の中に生と死が含まれている。腐燗によって統率されているわたしたち。一生は腐爛のなかに。わたしが腐るとき、それは、おそらく、もう死んでいる頃だろうと思う。しかし、豊かに腐爛するくだものは、腐爛とともに生きている。いや、腐爛していることそのものが、生きているということだ。腐爛こそが生きている証。人間の場合は、死に、それから腐爛していくが、くだものは、腐爛という生を生きる。りんごは、腐爛する。梨は、腐爛する。ぶどうは、腐爛する。いちごは、腐爛する。レタスは、腐爛する。キャベツは、腐爛する。スイートピーは、腐爛する。わたしは、腐爛する。ぼくらはみんな腐爛する。くだものである私は、腐爛してもなお生き続ける。腐爛が私の生を加速させる。腐爛よわれとともに。わたしのコーチのように。給水所の水のように。応援するひとたちのように。這われる道路のように。豊かに。腐爛しつづけながら。腐爛という生を走り切ったわたしは、感動のゴールとともに腐り切って、消滅するのであった。



あー この旅は 気楽な帰り道
のたれ死んだ所で 本当のふるさと
あー そうなのか そういうことなのか

THE BLUE HEARTS / ナビゲーター






となりの芝生は本当に青い

f:id:sunaong:20161005005119j:plain

庭の水撒きをするように奥さまにいわれて、雨がザアザア降ってるなか、濡れながら庭に水を撒かれたとか‥‥。と、京極夏彦荒俣宏について語ったエピソードがある。撒かれた水は、降られる雨によってなかったものと同等になる。構造的に「降られる雨」の中に「撒かれた水」があって、撒かれた水は降られる雨によって隠される。(逆に、降られる雨は撒かれた水によって隠されることはないはずだが、その構造が逆転する世界もどこかにあるかもしれない。すなわち「撒かれた水」によって隠される「降られる雨」である。)

このような「隠された構造」はいろいろなところにおいて隠される。たとえば、黒の中にはグレーが隠されていることがある。100% BLACK のこともあれば、うすい GREYが天まで昇ることをめざした力士たちのように重なりに重なりを重ね、100% BLACK になっていることもあるだろう。それはPSDデータを見てみない限りわからないことかもしれない。しかし、そこには確かに、わからないのだけれど、それはある。

暗闇の影のように、「噛」に隠れた「歯」のように、「歯」に隠れた「米」のように、「二」に隠れた「一」にように、それらは構造によって隠される。「肉」の中には「人」が隠れていて、僕たちは人である前に肉であり、肉と肉が肉しれず朝のあいさつをする。人道ならぬ肉道。それはきっと人も犬も猫もかえるも一緒だ。

先日、彼は「となりの芝生は青い」と言われたそうだ。となりの芝生の青とは、正確には青ではなく、青く見えているという意味だ。だから本当は青くないということだ。しかし、もしかしたら、そこには、実は、青が存在している可能性があるのではないか。「となりの芝生は青い」→「青くないことに気づく」。この芝生が青く見えた→青くなかったという転倒のせいで、青くない芝生が青く見えてしまったという錯覚だけではなく、本当は「かすかに青かったかもしれない芝生」すらも青くないように見えてしまうという、二重の錯覚を生んでいる可能性がある。

青く見えるとなりの芝生 / 青くない芝生

この間の「/」には「青い芝生」が隠されていた可能性がある。その芝生をとなりから見てしまったせいで、それは青く見えてしまい、当の芝生におりたったとき、それを青くないと「錯覚」し、そして結果的に本当の青を見逃すことになる。「となりの芝生の青」のせいで割を食ってしまった青が、そこにはいるのではないだろうか。わたしはその「かすか」ではあるが、「はかない」わけでもない、ただ、そこにしみじみとある青のことをもっと知りたいと思う。となりの芝生は青く見えて、本当に青いのかもしれないということを、もっと知りたいと思う。わたしがとなりの芝生の青に嫉妬を感じるように、そこに隠されている青も、虚構なる芝生の青に嫉妬を感じているかもしれない。

(死んだ魚のように)目を閉じておいでよ

f:id:sunaong:20160818002653j:plain

わたしが河瀨直美の「殯の森」という映画を見ていたところ、お坊さんが「"生きる"には2つあって、ひとつはご飯を食べること。もうひとつは生きている実感を感じること。手をにぎられるとか、声をかけられるとか、そういうエネルギーを受けたときに、人は生きていることを実感できる」ということをおっしゃられていて、とても印象的だった。

"生きる"には、「私は、私は、生きる!」というときの、自分を鼓舞するような、前向きさを感じさせる 生きる と、ただただ現実として生きている、ご飯を食べる、もっと簡単にいうと立つ、座る、歩く、息を吸う、などの 生きる のふたつの"生きる"があって、人生においてはこれが二重に重なっているいわば「"生きる"の二重性」と呼ぶべき現象があるみたいです。

どうやらわたしは、この「生きる!」のほうの"生きる"にまどわされて、そうでないと「生きていないことになっちゃうんじゃないか」と思っている。例えば、「死んだように生きる」という言葉には、「お前さぁ、死んだように生きてるんじゃないよ」のような、ネガティブな意味が内包されている。これは「生きる!」文脈において生きる言葉だ。

生きるということにあらゆる意味が含まれていて、活き活きして、前向きで、プリミティブでいないと「生きている」と言われないのではないか。そうしないと、みんな平等に生きていることになってしまって、人生においての前向きさみたいなものが失われるのが何か問題あったりするのだろうか。

生きることは尊いわけだが、だからって「がんばって生きる」「後悔しないように生きる」というのは、どうも、何か半分しか生きられていないような気がする。そして「生きる!」でないほうの「生きる」に申し訳ない気がする。そっちの「生きる」の影がうすくなって、それこそあなたは、もう生きているのか死んでいるのか、という状態ではないか。(死んでいるのと生きているのとのギリギリの境い目が生きているということなのだろうか?)

お前。お前は、死んだ魚の目をして生きていても、フルマラソンを走り切らなくても、起きたら夕方になっていても、生産性がみじんも感じられなくても、お前。お前は生きていることにまちがいはない。意志としての「生きる」ではなく、意志のない「生きる」。それは、たとえば、にぎりしめない手、しかし、ひらいていない手。おきないからだ、しかし、ねていないからだ。息を吸う。しかし、息をはく。(息を止めてすら、生きているわけだが)

そう考えると、死とはなんという統一性であろうか。生きるには「生きる」と「生きる!」があるが、死んだ後に「死ぬ」はあっても「死ぬ!」はない。死には二重性がない(物語でないかぎり)。濃いグレー一色。フラットな、統一された死だ。そういう意味では、「死んだように生きる」というのは、至極まっとうな、正確な表現ではないだろうか。「生きる!」ということではない、統一された死のように、フラットな、余分な状態のない、「生きる」。なるほど、そういうことだったのか。

そして、あなたが、生きるぞ、と言った瞬間に、すでに5、6歩先を歩いている、生きているあなたがいて、ハッとして、あなたはその肩をたたくのだ。

マルホランド・ドライブを3回借りて返して4回目に見た

f:id:sunaong:20160720000716j:plain

わたしは特に何のおもしろみもない夜の道を歩いていた。

わたしはマルホランド・ドライブという映画をみた。マルホランド・ドライブマーケットという曲が好きだったからだ。3回借りて見ないまま返し、4回目に最後までみた。そこでは物語が死んでいました。物語はあったのだろうけど、死んでいるように見えました。インターネットの解説を見ようとしてやめた。物語として回収されているような気がしたからだ。インランド・エンパイアという映画をみた。やはり物語は生きていませんでした。ワイルド・アット・ハートという映画をみた。ここには物語があったが、ここにも物語ではないほうに何か不可思議な印象がのこったのです。

物語が死んでいたら、そこには何が映っているのか。語彙がないので正確に言えない。たぶん、場面か。景色と言ってしまうと何かを失ってしまう気になるが、景色と言いたいような気もする。物語をみようと思ったのに物語は死んでいる。そうなるとそれは、ひたすら場面と景色を映しつづけるだけになる。わたしはそれをみていました。

ある日、西荻窪から長い道を帰っている途中、わたしが歩いている何のおもしろみもないはずの夜の道が、変わっている。道を照らす街灯。シャッターの奥にある車。明りのついた窓。車の後ろに広がる家跡。ぽつんとある家にスポットライトがあたっている。電飾。この景色は、物語ではない。だから、なんのおもしろみもない単なる景色だったはずだ。なぜだろう。

わたしは物語を見るつもりで映画をみたが、物語は死んでいた。そうすると、物語の物語ではない場面、景色、それらが強く自分の目に飛び込んできた。物語ではない景色になんのおもしろみも見いだせなかったはずが、映画が物語を見せないことによって、場面、景色を目の当たりにすることになる。物語ではない、わたしの歩く夜の道が、物語ではないままに、別の様相をおびてくる。

物語が物語であることをやめたとき、それは別の入り口を示す。それはたとえば、わたしの歩いているなんのおもしろみもなかった夜の道がなんともおかしなものに見えてくる、そんなものらしい。

猫を猫として書く

保坂和志の「猫を猫として書く」という言葉が前から気になっていた。猫を登場人物の心理の説明として使わない、ということだそうだ。小説の中で「猫を猫として書く」。そこには「猫として書かれた猫による空洞」ができているのではないかと思う。その空洞は何にも支配されない。いとうせいこうが田舎にいったときに何かがひらひらと飛んできて、それを「蝶だ」と言おうとすることに圧倒的な嫌悪感が湧いたと言っていた。そこには物語性がふくまれてしまっているから。すべてのものが物語の中に収束されていく。すべてのものが社会性の中に収束されていく。のは、なにか、とても窮屈。仕事では、そのものごとに意味がないといけないって言っている。けど、同時に意味がなくていいものもあるって心の中では言っているし、口に出すこともある。普通ということばにも、異常ということばにも、意味がねばこくひっついてきている。いつのまにか意味が意味ではないものに変貌している。文脈と言ったほうがいいだろうか。柴崎友香が天気は自分には関係ない、自分が落ち込んでいるから雨がふるわけじゃない、そういうことも意に介さないで世界があり続けるというところに救われると言っているのだけど、天気というものは、自分が幸せなときに雨がふり、つらいときに晴れたりする。そこには物語も社会性もない。だから天気予報が信じられなくても、天気予報のお姉さんが信じられなくても、天気そのものは信じられる。残虐なことがそこで起きていたとしても、戦争が起きていたとしても、空は晴れることができる。物語であれば、不吉な現象が起きると、たちまち空はゴロゴロ言い出すだろうけれども、本当は、不吉な現象が起きてもたちまち晴れることが可能だ。空は晴れ、くもり、雨がふる。そこには空洞があるように見える。社会性に埋もれた景色の中に空洞を感じる。社会化され、物語化されているすべてのものをそのままの眼でみたときに、それは空洞化される。「猫を猫として書く」ということは、そういうことなのだと思う。その空洞は、空洞であるがままに、あるき、たべ、なき、うごきまわり、みずからのりょういきをたんたんとひろげていくのだ。

 


P.S.中原昌也の「誰の欲望も満たすことの絶対にない小説を書きたい」という言葉にも空洞性を感じる。