Hallo sunaon!

日記帳

となりの芝生は本当に青い

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庭の水撒きをするように奥さまにいわれて、雨がザアザア降ってるなか、濡れながら庭に水を撒かれたとか‥‥。と、京極夏彦荒俣宏について語ったエピソードがある。撒かれた水は、降られる雨によってなかったものと同等になる。構造的に「降られる雨」の中に「撒かれた水」があって、撒かれた水は降られる雨によって隠される。(逆に、降られる雨は撒かれた水によって隠されることはないはずだが、その構造が逆転する世界もどこかにあるかもしれない。すなわち「撒かれた水」によって隠される「降られる雨」である。)

このような「隠された構造」はいろいろなところにおいて隠される。たとえば、黒の中にはグレーが隠されていることがある。100% BLACK のこともあれば、うすい GREYが天まで昇ることをめざした力士たちのように重なりに重なりを重ね、100% BLACK になっていることもあるだろう。それはPSDデータを見てみない限りわからないことかもしれない。しかし、そこには確かに、わからないのだけれど、それはある。

暗闇の影のように、「噛」に隠れた「歯」のように、「歯」に隠れた「米」のように、「二」に隠れた「一」にように、それらは構造によって隠される。「肉」の中には「人」が隠れていて、僕たちは人である前に肉であり、肉と肉が肉しれず朝のあいさつをする。人道ならぬ肉道。それはきっと人も犬も猫もかえるも一緒だ。

先日、彼は「となりの芝生は青い」と言われたそうだ。となりの芝生の青とは、正確には青ではなく、青く見えているという意味だ。だから本当は青くないということだ。しかし、もしかしたら、そこには、実は、青が存在している可能性があるのではないか。「となりの芝生は青い」→「青くないことに気づく」。この芝生が青く見えた→青くなかったという転倒のせいで、青くない芝生が青く見えてしまったという錯覚だけではなく、本当は「かすかに青かったかもしれない芝生」すらも青くないように見えてしまうという、二重の錯覚を生んでいる可能性がある。

青く見えるとなりの芝生 / 青くない芝生

この間の「/」には「青い芝生」が隠されていた可能性がある。その芝生をとなりから見てしまったせいで、それは青く見えてしまい、当の芝生におりたったとき、それを青くないと「錯覚」し、そして結果的に本当の青を見逃すことになる。「となりの芝生の青」のせいで割を食ってしまった青が、そこにはいるのではないだろうか。わたしはその「かすか」ではあるが、「はかない」わけでもない、ただ、そこにしみじみとある青のことをもっと知りたいと思う。となりの芝生は青く見えて、本当に青いのかもしれないということを、もっと知りたいと思う。わたしがとなりの芝生の青に嫉妬を感じるように、そこに隠されている青も、虚構なる芝生の青に嫉妬を感じているかもしれない。

(死んだ魚のように)目を閉じておいでよ

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わたしが河瀨直美の「殯の森」という映画を見ていたところ、お坊さんが「"生きる"には2つあって、ひとつはご飯を食べること。もうひとつは生きている実感を感じること。手をにぎられるとか、声をかけられるとか、そういうエネルギーを受けたときに、人は生きていることを実感できる」ということをおっしゃられていて、とても印象的だった。

"生きる"には、「私は、私は、生きる!」というときの、自分を鼓舞するような、前向きさを感じさせる 生きる と、ただただ現実として生きている、ご飯を食べる、もっと簡単にいうと立つ、座る、歩く、息を吸う、などの 生きる のふたつの"生きる"があって、人生においてはこれが二重に重なっているいわば「"生きる"の二重性」と呼ぶべき現象があるみたいです。

どうやらわたしは、この「生きる!」のほうの"生きる"にまどわされて、そうでないと「生きていないことになっちゃうんじゃないか」と思っている。例えば、「死んだように生きる」という言葉には、「お前さぁ、死んだように生きてるんじゃないよ」のような、ネガティブな意味が内包されている。これは「生きる!」文脈において生きる言葉だ。

生きるということにあらゆる意味が含まれていて、活き活きして、前向きで、プリミティブでいないと「生きている」と言われないのではないか。そうしないと、みんな平等に生きていることになってしまって、人生においての前向きさみたいなものが失われるのが何か問題あったりするのだろうか。

生きることは尊いわけだが、だからって「がんばって生きる」「後悔しないように生きる」というのは、どうも、何か半分しか生きられていないような気がする。そして「生きる!」でないほうの「生きる」に申し訳ない気がする。そっちの「生きる」の影がうすくなって、それこそあなたは、もう生きているのか死んでいるのか、という状態ではないか。(死んでいるのと生きているのとのギリギリの境い目が生きているということなのだろうか?)

お前。お前は、死んだ魚の目をして生きていても、フルマラソンを走り切らなくても、起きたら夕方になっていても、生産性がみじんも感じられなくても、お前。お前は生きていることにまちがいはない。意志としての「生きる」ではなく、意志のない「生きる」。それは、たとえば、にぎりしめない手、しかし、ひらいていない手。おきないからだ、しかし、ねていないからだ。息を吸う。しかし、息をはく。(息を止めてすら、生きているわけだが)

そう考えると、死とはなんという統一性であろうか。生きるには「生きる」と「生きる!」があるが、死んだ後に「死ぬ」はあっても「死ぬ!」はない。死には二重性がない(物語でないかぎり)。濃いグレー一色。フラットな、統一された死だ。そういう意味では、「死んだように生きる」というのは、至極まっとうな、正確な表現ではないだろうか。「生きる!」ということではない、統一された死のように、フラットな、余分な状態のない、「生きる」。なるほど、そういうことだったのか。

そして、あなたが、生きるぞ、と言った瞬間に、すでに5、6歩先を歩いている、生きているあなたがいて、ハッとして、あなたはその肩をたたくのだ。

マルホランド・ドライブを3回借りて返して4回目に見た

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わたしは特に何のおもしろみもない夜の道を歩いていた。

わたしはマルホランド・ドライブという映画をみた。マルホランド・ドライブマーケットという曲が好きだったからだ。3回借りて見ないまま返し、4回目に最後までみた。そこでは物語が死んでいました。物語はあったのだろうけど、死んでいるように見えました。インターネットの解説を見ようとしてやめた。物語として回収されているような気がしたからだ。インランド・エンパイアという映画をみた。やはり物語は生きていませんでした。ワイルド・アット・ハートという映画をみた。ここには物語があったが、ここにも物語ではないほうに何か不可思議な印象がのこったのです。

物語が死んでいたら、そこには何が映っているのか。語彙がないので正確に言えない。たぶん、場面か。景色と言ってしまうと何かを失ってしまう気になるが、景色と言いたいような気もする。物語をみようと思ったのに物語は死んでいる。そうなるとそれは、ひたすら場面と景色を映しつづけるだけになる。わたしはそれをみていました。

ある日、西荻窪から長い道を帰っている途中、わたしが歩いている何のおもしろみもないはずの夜の道が、変わっている。道を照らす街灯。シャッターの奥にある車。明りのついた窓。車の後ろに広がる家跡。ぽつんとある家にスポットライトがあたっている。電飾。この景色は、物語ではない。だから、なんのおもしろみもない単なる景色だったはずだ。なぜだろう。

わたしは物語を見るつもりで映画をみたが、物語は死んでいた。そうすると、物語の物語ではない場面、景色、それらが強く自分の目に飛び込んできた。物語ではない景色になんのおもしろみも見いだせなかったはずが、映画が物語を見せないことによって、場面、景色を目の当たりにすることになる。物語ではない、わたしの歩く夜の道が、物語ではないままに、別の様相をおびてくる。

物語が物語であることをやめたとき、それは別の入り口を示す。それはたとえば、わたしの歩いているなんのおもしろみもなかった夜の道がなんともおかしなものに見えてくる、そんなものらしい。

猫を猫として書く

保坂和志の「猫を猫として書く」という言葉が前から気になっていた。猫を登場人物の心理の説明として使わない、ということだそうだ。小説の中で「猫を猫として書く」。そこには「猫として書かれた猫による空洞」ができているのではないかと思う。その空洞は何にも支配されない。いとうせいこうが田舎にいったときに何かがひらひらと飛んできて、それを「蝶だ」と言おうとすることに圧倒的な嫌悪感が湧いたと言っていた。そこには物語性がふくまれてしまっているから。すべてのものが物語の中に収束されていく。すべてのものが社会性の中に収束されていく。のは、なにか、とても窮屈。仕事では、そのものごとに意味がないといけないって言っている。けど、同時に意味がなくていいものもあるって心の中では言っているし、口に出すこともある。普通ということばにも、異常ということばにも、意味がねばこくひっついてきている。いつのまにか意味が意味ではないものに変貌している。文脈と言ったほうがいいだろうか。柴崎友香が天気は自分には関係ない、自分が落ち込んでいるから雨がふるわけじゃない、そういうことも意に介さないで世界があり続けるというところに救われると言っているのだけど、天気というものは、自分が幸せなときに雨がふり、つらいときに晴れたりする。そこには物語も社会性もない。だから天気予報が信じられなくても、天気予報のお姉さんが信じられなくても、天気そのものは信じられる。残虐なことがそこで起きていたとしても、戦争が起きていたとしても、空は晴れることができる。物語であれば、不吉な現象が起きると、たちまち空はゴロゴロ言い出すだろうけれども、本当は、不吉な現象が起きてもたちまち晴れることが可能だ。空は晴れ、くもり、雨がふる。そこには空洞があるように見える。社会性に埋もれた景色の中に空洞を感じる。社会化され、物語化されているすべてのものをそのままの眼でみたときに、それは空洞化される。「猫を猫として書く」ということは、そういうことなのだと思う。その空洞は、空洞であるがままに、あるき、たべ、なき、うごきまわり、みずからのりょういきをたんたんとひろげていくのだ。

 


P.S.中原昌也の「誰の欲望も満たすことの絶対にない小説を書きたい」という言葉にも空洞性を感じる。