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business boy

文章にイラストを添えた何かをかいていく予定になっている場所です

秋のくだもの、腐燗する

夜の器の硬い面の内で
あざやかさを増してくる
秋のくだもの
りんごや梨やぶどうの類
それぞれは
かさなったままの姿勢で
眠りへ
ひとつの諧調へ
大いなる音楽へと沿うてゆく
めいめいの最も深いところへ至り
核はおもむろによこたわる
そのまわりを
めぐる豊かな腐燗の時間
いま死者の歯のまえで
石のように発しない
それらのくだものの類は
いよいよ重みを加える
深い器のなかで
この夜の仮象の裡で
ときに
大きくかたむく

吉岡実/静物

くだものは、静物だ。しかし、それらは、あざやかさを増す。それらは、眠る。それらは、深いところへ至る。それらは、重みを加える。夜の器の硬さに対し、それらは、気が遠くなるほど、遠い時間に向けて、静かに、座り、遠い昔に立てられていた線香のように、かすかに運動をしている。

くだものは、運動している。腐爛という方法によって。自然と耳に入ってくるだれかの口笛。そのとき耳は、自ら聴くのではなく「聴か」させられる」。くだものたちは、受動的に運動する。自ら動くのではなく、神経、何かの諸感覚によって、自然と動いてしまった親指、人差し指、中指、くすり指、そして小指を思わせるそぶりで。自らの腐爛する能力によって、自ら自身が「動か」させられる」。くだものとは、静物ではない、いまとなっては。静の中の運動性である。静物のいちまい皮の内側にうごめく動物。わたしたちの時間間隔では静物であったそれらは、時間間隔の外に出てしまったとき、疑いもなく動物になる。それは、どうやら、くだものの時間間隔で見なければ、一向に見えてこない。または、遠い未来、腐爛した姿を目の当たりにしたとき、くだものの静なる運動性にわたしは気づく。大阪府の近藤和子さん77歳は「なめくじは 走っているの かも知れず」と詠んだ。和子さんにはきっと、なめくじの静の中の運動性が見えていたのではないだろうか。

豊かな腐爛の時間。くだものは、豊かに腐爛する。「豊か」とは、明るさ。「豊か」には、いきいきとした生を感じる。と、いうことは、豊かな腐爛とは、腐爛とは、もしかしたら、それは生きているということだろうか。くだものは、いつからか、やがて、熟れる。そして、あるときを境に、なのか、またはシームレスに、なのか、やがて、腐る。腐る、それは、死に直結する。それでは、腐爛というもののなかで、どこまでが生きていて、どこからが死んでいるのか。死の中に腐爛が内包されているわたしとは違い、それらは、腐爛の中に生と死が含まれている。腐燗によって統率されているわたしたち。一生は腐爛のなかに。わたしが腐るとき、それは、おそらく、もう死んでいる頃だろうと思う。しかし、豊かに腐爛するくだものは、腐爛とともに生きている。いや、腐爛していることそのものが、生きているということだ。腐爛こそが生きている証。人間の場合は、死に、それから腐爛していくが、くだものは、腐爛という生を生きる。りんごは、腐爛する。梨は、腐爛する。ぶどうは、腐爛する。いちごは、腐爛する。レタスは、腐爛する。キャベツは、腐爛する。スイートピーは、腐爛する。わたしは、腐爛する。ぼくらはみんな腐爛する。くだものである私は、腐爛してもなお生き続ける。腐爛が私の生を加速させる。腐爛よわれとともに。わたしのコーチのように。給水所の水のように。応援するひとたちのように。這われる道路のように。豊かに。腐爛しつづけながら。腐爛という生を走り切ったわたしは、感動のゴールとともに腐り切って、消滅するのであった。



あー この旅は 気楽な帰り道
のたれ死んだ所で 本当のふるさと
あー そうなのか そういうことなのか

THE BLUE HEARTS / ナビゲーター