business boy

文章にイラストを添えた何かをかいていく予定になっている場所です

(死んだ魚のように)目を閉じておいでよ

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わたしが河瀨直美の「殯の森」という映画を見ていたところ、お坊さんが「"生きる"には2つあって、ひとつはご飯を食べること。もうひとつは生きている実感を感じること。手をにぎられるとか、声をかけられるとか、そういうエネルギーを受けたときに、人は生きていることを実感できる」ということをおっしゃられていて、とても印象的だった。

"生きる"には、「私は、私は、生きる!」というときの、自分を鼓舞するような、前向きさを感じさせる 生きる と、ただただ現実として生きている、ご飯を食べる、もっと簡単にいうと立つ、座る、歩く、息を吸う、などの 生きる のふたつの"生きる"があって、人生においてはこれが二重に重なっているいわば「"生きる"の二重性」と呼ぶべき現象があるみたいです。

どうやらわたしは、この「生きる!」のほうの"生きる"にまどわされて、そうでないと「生きていないことになっちゃうんじゃないか」と思っている。例えば、「死んだように生きる」という言葉には、「お前さぁ、死んだように生きてるんじゃないよ」のような、ネガティブな意味が内包されている。これは「生きる!」文脈において生きる言葉だ。

生きるということにあらゆる意味が含まれていて、活き活きして、前向きで、プリミティブでいないと「生きている」と言われないのではないか。そうしないと、みんな平等に生きていることになってしまって、人生においての前向きさみたいなものが失われるのが何か問題あったりするのだろうか。

生きることは尊いわけだが、だからって「がんばって生きる」「後悔しないように生きる」というのは、どうも、何か半分しか生きられていないような気がする。そして「生きる!」でないほうの「生きる」に申し訳ない気がする。そっちの「生きる」の影がうすくなって、それこそあなたは、もう生きているのか死んでいるのか、という状態ではないか。(死んでいるのと生きているのとのギリギリの境い目が生きているということなのだろうか?)

お前。お前は、死んだ魚の目をして生きていても、フルマラソンを走り切らなくても、起きたら夕方になっていても、生産性がみじんも感じられなくても、お前。お前は生きていることにまちがいはない。意志としての「生きる」ではなく、意志のない「生きる」。それは、たとえば、にぎりしめない手、しかし、ひらいていない手。おきないからだ、しかし、ねていないからだ。息を吸う。しかし、息をはく。(息を止めてすら、生きているわけだが)

そう考えると、死とはなんという統一性であろうか。生きるには「生きる」と「生きる!」があるが、死んだ後に「死ぬ」はあっても「死ぬ!」はない。死には二重性がない(物語でないかぎり)。濃いグレー一色。フラットな、統一された死だ。そういう意味では、「死んだように生きる」というのは、至極まっとうな、正確な表現ではないだろうか。「生きる!」ということではない、統一された死のように、フラットな、余分な状態のない、「生きる」。なるほど、そういうことだったのか。

そして、あなたが、生きるぞ、と言った瞬間に、すでに5、6歩先を歩いている、生きているあなたがいて、ハッとして、あなたはその肩をたたくのだ。