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business boy

文章にイラストを添えた何かをかいていく予定になっている場所です

猫を猫として書く

保坂和志の「猫を猫として書く」という言葉が前から気になっていた。猫を登場人物の心理の説明として使わない、ということだそうだ。小説の中で「猫を猫として書く」。そこには「猫として書かれた猫による空洞」ができているのではないかと思う。その空洞は何にも支配されない。いとうせいこうが田舎にいったときに何かがひらひらと飛んできて、それを「蝶だ」と言おうとすることに圧倒的な嫌悪感が湧いたと言っていた。そこには物語性がふくまれてしまっているから。すべてのものが物語の中に収束されていく。すべてのものが社会性の中に収束されていく。のは、なにか、とても窮屈。仕事では、そのものごとに意味がないといけないって言っている。けど、同時に意味がなくていいものもあるって心の中では言っているし、口に出すこともある。普通ということばにも、異常ということばにも、意味がねばこくひっついてきている。いつのまにか意味が意味ではないものに変貌している。文脈と言ったほうがいいだろうか。柴崎友香が天気は自分には関係ない、自分が落ち込んでいるから雨がふるわけじゃない、そういうことも意に介さないで世界があり続けるというところに救われると言っているのだけど、天気というものは、自分が幸せなときに雨がふり、つらいときに晴れたりする。そこには物語も社会性もない。だから天気予報が信じられなくても、天気予報のお姉さんが信じられなくても、天気そのものは信じられる。残虐なことがそこで起きていたとしても、戦争が起きていたとしても、空は晴れることができる。物語であれば、不吉な現象が起きると、たちまち空はゴロゴロ言い出すだろうけれども、本当は、不吉な現象が起きてもたちまち晴れることが可能だ。空は晴れ、くもり、雨がふる。そこには空洞があるように見える。社会性に埋もれた景色の中に空洞を感じる。社会化され、物語化されているすべてのものをそのままの眼でみたときに、それは空洞化される。「猫を猫として書く」ということは、そういうことなのだと思う。その空洞は、空洞であるがままに、あるき、たべ、なき、うごきまわり、みずからのりょういきをたんたんとひろげていくのだ。

 


P.S.中原昌也の「誰の欲望も満たすことの絶対にない小説を書きたい」という言葉にも空洞性を感じる。